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音楽との出会いA(吹奏楽について) 2004年7月22日
私の出身中学には、文化部がなかった。運動が苦手という事と音楽関係の部活がやりたいって事で、毎年、母に家庭環境調査の学校への要望で「合唱部か吹奏楽部を作って欲しい」と書いてもらっていたが、叶わなかった。
高校は、公立高校に落ちたので、第2希望の私立高校に行った。そこには、@にも書いている通り、吹奏楽部がなかった。でも、器楽アンサンブル部があるという事を入学前高校のパンフレットを見て知り、微かな期待をした。入学してすぐに入部した。思った以上に「アンサンブル」だけの色が濃かったのだが、幸い1つ上のM先輩の野望のおかげで、前年までよりも急激に発展した年となった。まず、M先輩の入る前までは、管楽器だけだったのだが、先輩がパーカッションだったので、打楽器が増えた。私達の代で部員が増えた。体育大会で行進曲を演奏した。定演で譜面台につけるたれ(!?)(手作りなんだけど、なかなか立派な物)をつけた。楽器もいくつか買ってもらい、最低音楽器としてユーホも入れた。定演を3部構成とし、オリジナル&クラシック・アンサンブル・ポップスとした。吹奏楽コンクールには、出れなかったけど、2年目にアンサンブルコンテストに出た。以上だ。私は、最初トランペットだった。でも、クラリネットがやりたくてたまらなくて、一度退部して再入部した時クラリネットになった。いろいろな人を勧誘して、今思えば・・・我ながらすごい!と思うぐらいに部員を増やした。が、やはり思いが強くない人達は、辞めて行った。いろいろな個性的な人達と出会い、音楽の以外の部分で、人生勉強になったような気がする。合宿では、だらだら吹いていた事の他に、部屋で(2段ベッドあり)シャボン玉をした事(もちろん、床がぬるぬる。後の掃除が大変だったような・・・)いろいろな種類の花火をした事を良く覚えている。
また、高校時代、同じ高校を希望していたMさんと、コンクールや定演めぐりをした。コンクールなんか、一日中いたし・・・。今思えば凄い!吹奏楽への思いは、高まるばかり・・・。耳も肥えてくるしね。
大学受験にも失敗し、短大では吹奏楽同好会に入った。5〜6人の部員だったんだけど、これまた練習というか・・・冬の練習は、かなり辛いものがあった。でも、少ないからこそ、濃い日々だった気がする・・・((笑 それと同時に、一般の吹奏楽団に在籍していた。MSC吹奏楽団だ。昔は、かなり凄い団だったらしい。それで入ったのだが、私が入った頃は、すでに廃れていた・・・m(_ _)m 一般の団というのは、なかなか難しい。練習場所と楽器確保。指揮の先生が途中投げ出した時は、散々だった。ただ、実力的には、かなり高い人もいたりして、音楽は学ぶ事が出来た。レクレーションも多かった。ドライブ・花火大会・初日の出等・・。私が入った年、コンクールでまさかの銅。この時もトラはいたのだが、銅は、かなりみんなに(特に先生に)応えたらしく、次の年はさらに凄かった。とにかく・・・東京からも呼ぶし〜〜。入りが難しい曲だったのだが、本番もずれたものの、カラ金はとれた((爆 出だしのタタタタ〜〜が、相当難しかった。怒られまくった。でも、おもしろかった。また、定演で吹いてくれた涙のサックスと呼ばれる人の音色・ロマンチックな音を出すユーホのHさんの音色は、今でも忘れられない。キンキンの音を出すトラのトランペッターさんの音も別の意味では忘れられないけど・・・。
就職して、吹奏楽部を持つのが微かな夢だったんだけど、社会科の教師が絶対譲らない&一人で持つという気持ちが強く、5年間合唱部顧問だった。次の赴任校では、(小さな島の学校)音楽部にアンサンブルが出来るように要望し、楽器を買ってもらった。が、ぱっとしない練習のため×
3校目の頃には、すでに吹奏楽への熱もかなり冷めていたんだけど・・・。そうなると、逃げられない現実があり、最初の年は三人顧問だったので、二人の先生のやり方を見せてもらった。次の年からついに1人で持つ事となり、四苦八苦した。吹奏楽を1人で持つのは、かなりきつい。この年のメンバーは、かなり良かった。二学年ともすごくて、なんと・・・コンクールの定員には1人オーバー。直前まで引きずって、泣く泣く切った。結果は、銅賞。その後、銅賞がずっと続いたが、段々合奏の作り方・団のひっぱり方がわかってきた。外部講師に来てもらったけど、それがまた・・・まずい!この人、私が部活に行けないのを子どもの前で悪口言ったりして・・・。ただし、子ども達からは、あまり好かれていなかったにも関わらず、それなりに腕を上げてくれた。でも、1年間でお断りした。しかし・・申し訳ないことに、次の年の夏のコンクールで初の銀賞!でも・・・、私もこの頃は、かなり入り込んでいて、直前の練習は、学校を開けて閉めていた。一日中ず〜〜っとやっていた。とりあえず、合奏の作り方は学んだ。
4校目。子ども達も練習は短時間で!自分の時間もそれなりに大切にする!という感じだったので、この頃の私の生活に合っていた。銅賞だったけど、それなりに・・・。
吹奏楽熱もだいぶん冷めたけど、それには訳がある。ひとつは、自分の生活が変わった事。でも、それ以前に、福岡市の中学の吹奏楽部のあり方が、私が採用された頃と比べて、変わってきた事だ。金賞をとるような所は、すっごくお金と時間をかけている。パート毎に指導者がおり、個人レッスンにも通わせている。小さい楽器は、個人持ち。団に指導者がたくさんいるのだ。私が持ってきた吹奏楽部は、月500円年間6000円の部費だが、そういう所は、月に何千円かの部費。高校ならわかるが、義務教育の部活でここまでしていいのか?こうなると、家庭的に厳しい所は、入る部活まで制限されるだろう。この現実を知った時、なんとも言えないいや〜な気持ちになった。吹奏楽そのものは、結構好きなんだけどね・・・。
音楽との出会い@
2004年4月24日
小さい頃からいつも音楽が身近にあった。出会いは、やっぱりピアノかな!?幼稚園に入ってしばらくして習い始めたんだと思う。おもちゃ屋さんの裏で開いてあった音楽教室だ。そこでのピアノの発表会では、二人で弾いていたんだけど(連弾ってのではなくて、同じ曲を一緒に弾いてたのかな!?と思う。何を弾いたかの記憶はあまりない。ただ、発表会の写真は克明に刻まれている。)写真の中の先生は、私の方ばかり恐い顔をして見てあった。それが、異常に焼きついている。そんなに心配な生徒だったのか・・・?謎だ。家ではピアノを弾いていたが、この頃は実際には、音楽教室ではオルガン。その後、ピアノを弾くようになった。私は、そんなに練習好きではなかったし、手も細く小さいし、ピアノの練習はずっと苦痛だったように感じる。
その後、家の近くの先生に変わった。ここでは、クリスマス会とかで頂いた物がなぜか記憶に残っている。でも、いわゆる普通の(ただメロディーを教えるだけ!?)の先生だったので、淡々と習ってた感じだったようだ。今にして思えば・・・譜読みがすこ〜〜し上手くなったぐらいかな!?と思う。
姉が短大の音楽科に進むという事で先生が変わった時、私もその先生に習うようになった。この先生は、がっしり型の体型で今までの先生とは少し違っていた。少しまともに音楽の表情付けも習ったように思う。ただ・・・、私はピアノの練習嫌いであった。姉からは、「ピアノの練習した?」とチェックを毎日入れられた。練習嫌いなので、鍵盤の上のカバーだけを位置を変えて「練習したよ〜!」なんて嘘を付く日もあったぐらいだった・・・。(なんだか、今考えると情けない・・・と同時に、笑える。)小学6年生の発表会の時、自分の曲と姉との連弾の曲と2曲弾くことになっていた。その頃、他にお習字とそろばんをやっており、実はそろばんの九州大会(佐世保まで泊まりで行く)と発表会の日が同じ日になった。幼い頃の選択を迫られた事としては、とっても大きな出来事で、相当悩んだが、私は宿泊につられ・・・そろばんを選んだ。姉からは、「あとで後悔しても知らんよ!」と相当言われた事がすごく残っている。連弾は、姉と先生で行った。後日、写真を見たが、大きい人が二人でかわいい曲の連弾をしてる姿は・・・結構笑えた・・・と思う。姉が短大に入り、私はその先生に習い続けたが、その先生は実は実家に教えに来てあったんだけど、自分の家でしか教えない事になり、相当遠い所だったので、少し悩んだが、その遠くまで習いに行った。しかし・・・・・、福岡市の端の端(と言っては失礼だが・・・西区の端の方だったのでかなり遠く、)途中で、その先生のお友達の私の高校の近くに習いに行くことにした。でも、前の先生ほどの達成感がなく、あまり力にならないな・・・・と思っていた。姉は、短大卒業後2年間カワイに勤めていたので、姉の教室の発表会に出させてもらったりもした。発表会は、緊張するし、異常にあがりまくった事もあったが、おしゃれな服が着れるし、結構好きだった。
高校2年の終わり頃、自分の進路を決めなければいけなかった。高校時代、かなり吹奏楽に興味があったのだが、公立高校の受験に失敗し、私が行った高校には、「吹奏楽部」ではなく「器楽アンサンブル部」というのしかなく、大学ではコンクールに出たり、演奏会に出たり・・・というのが一番の希望だったので、理系に進み、吹奏楽をやる!というのが希望だったのだが、結局幼い頃からピアノを習わせてもらっているという負い目から(!?)音楽の方に進む事に決めた。決めたのは良いが、今までだらだら・・・・でしかピアノに接して来なかった私なので、この後の1年間は相当苦しいものになった。第1希望は、福岡教育大の中学音楽。第2希望というか・・・すべり止めは、九州女子短期大学という事が(姉がここを卒業していた)暗黙の了解だった。今は、浪人するのは当たり前!な感じの子ども達が増えてるけど、うちの家では、「女が浪人するなんて!!!」だったので、とにかく絶対受かる所をひとつ受けるという事だった。
まず、福岡市にお住まいの教育大の作曲専門のU先生に、ピアノの腕を見てもらいに行った。ひどい事は言われなかったが、いまいちだし、この先生に習いたいとはあまり思わなかった・・・。それから、姉が短大でちょっとお世話になったというきっかけから、中間市に住んである声楽専門のT先生に声を見てもらった。歌は好きだったが、それまで全く習っていなかった。でも、「うまいですね〜〜。1年間練習すれば、教育大の中音でも十分受かるでしょう〜。」と言ってもらい、ほくほく顔で家に帰った。その後、そのT先生の紹介で教育大でピアノ専門のK先生に見てもらったが、「中音は、無理ですね〜。小音(小学校音楽)なら行けるかも!?」と言われ、あまり期待してもなかったけど、適度にショックを受けながら帰った。実際にそれからピアノを教えてもらう事になった先生は、赤間に住んである教育大でビオラ専門のT先生の奥さんだ。そして、ソルフェージュ・楽典・聴音を新宮に住んである教育大の学生(なんと・・・名前忘れたミ(o_△_)o)に習った。1週間は、誰でも7日しかない。受験まで約1年。声楽を中間市まで・・・・ピアノを赤間まで・・・・ソルフェージュ他を新宮まで・・・・。それと、もちろん共通一次のための教科の勉強。ピアノは、下手なので毎日2時間の練習・声楽は1時間の練習。楽典も勉強しなきゃいけない。一日24時間を無駄なく最高に充実させて使わなければいけなかった。
それにしても、声楽とソルフェージュ他は、得意なので良い。何しろ、誉められる事の方が多いわけだから・・・、足取りも自然と軽くなる。しかし、ピアノは・・・・、根はとっても優しくてあったかい先生なんだけど、訓練の出来てない私の手を作るために、相当きついレッスンを受けた。ピアノの睦子先生も恐いんだけど、旦那の貞夫先生がいらっしゃる時は、ひょいと出てきて、ぐさっと突き刺さるきつい事を言って部屋を出て行かれる。この恐怖は、相当なものだった。玄関を入って、すぐに確認する事は、貞夫先生の靴があるかどうかだ!おられない事を確認した時は、「よっしゃ〜〜〜!!」って感じで、足取りが軽くなる。おられるという事がわかった時は、いつ出てくるか!!そればかりが気になり、部屋のドアから入って来られる時はまだしも、庭に出てあって、庭仕事の格好で突然窓から入って来られたら・・・・・う〜〜〜って感じで、すでに涙が出そうになる。「お前の音を聴くと、肩が凝る。」「音楽性のかけらも感じられない!!」と何度言われ、先生の家からの下り坂を泣きながらとぼとぼと帰った事か・・・・・。でも、恐い恐い先生だったけど、とっても音楽を愛している事が分かっていたし、彼の教える力のすごさは、実証済みだった。長期休暇は、鹿児島等から、音高(東京芸大付属高校)受験のために、先生の家に泊り込んで習いに来る子が必ずいた。生活面は、奥さんの方がお世話されてたようだ。ある時は、ちょうど一緒になった教え子さんと二人、睦子先生にお昼ご飯をご馳走になった。ラーメンだったが、それに入ってたゆで卵がなんともゴージャスな雰囲気を出していて、とっても美味しかった。とにかく、このご夫婦は、お子さんがおらず、人間が好きで、音楽が好きで、だからこそ音楽にもとても厳しく、二人に教わった事は、今でもものすごく残っている。貞夫先生は、身体が強い方ではなくて、もうこの世にいない。彼の追悼演奏会が盛大に行われた。その時の教え子さんの言葉には、やっぱり・・・・・「あの坂を泣いて帰った。」という事がたくさん書かれてあった・・・。(貞夫先生が亡くなられて、いつか遊びに行こうと思っていたけど、思っていただけで月日が過ぎていた。この前、声楽のT先生に睦子先生のその後を聞くと、東北の方に結婚されて行かれたとか・・・・。)そうそう・・・、貞夫先生後日談がある。短大卒業後戸畑であった新人演奏会に出た時、睦子先生にピアノ伴奏をお願いした。その伴奏合わせの練習の時、初めて貞夫先生に誉めていただいた。ピアノではなく、歌だ。「肩の凝りがやわらぐ声だね〜。」かなんか、言っていただいた。じ〜〜〜んと来た。
受験の結果は、いわゆる・・・足切り。共通一次の点数がほんの少し足りなかったそうだ。でも、先生方のおかげで、二次の声楽・ピアノ・その他の点数は、ほとんどトップに近かったらしい。第一希望校に入れなかったのは、後々まで悔やまれたが、この結果は、この後生きていく上で、大きな自信になった。
短大では、それまであれ程頑張っていたピアノだが、あくまでも声楽が専門だし、ピアノはあまり他の人も上手くない。それで、物足りなく感じる事がたくさんあった。でも、管弦楽の授業では、2年の音楽科の定期演奏会で演奏するのだが(私の担当は、クラリネット)、私達の代は個性的な人が多く、それだけでなく、音楽の中身にこだわる人がたくさんいたので、自分達で音楽を作っていったという感じがとっても強かった。この短大の中では、結構いい中身の演奏だったと思う。専門のソロオーディションで私は落ちた。オーディションを受ける前の第1次審査のようなものは通ったのだが、今ひとつだった。曲も良くなかったかな・・・。短大でついた声楽のM先生は、かなり整髪料のにおいが強く、密室では辛いものがあり、学生の評判はあまり良くなかったが、金儲けのために教えてるという感じが全くない人で、たくさんさらっていけば、たくさんみてくれるし、あまりやっていなければ、5分で終わり(そういう人もいたような・・・。)というような人だった。私は、結構可愛がってもらっていた。だからソロがダメだったのも残念がってもらったような気がする。だけど、卒業試験で力が出せたので・・・「終わり良ければ・・!」という事になるだろう・・・。卒業試験で歌ったのは、「ある晴れた日に」だった。
伝統音楽の使われ方について
2003年
4〜5年前から、急に日本中で私の知る限り「伝統音楽が騒がれ始めました。音楽好きな私なので、もちろん伝統音楽にも興味はあります。伝統音楽の一流と言われる人達が、人気を集めるのも良い傾向だと思います。ただ・・・・・、問題は出現の仕方です。
国が動かそうとしている方向に、その時代毎にいつも利用されるのは、教育界です。音楽界は、音楽界。教育界は、教育界。そして・・・それを結ぶ役目をしているのが、私たちだったり、マスコミだったりすると思います。
どのように出てきたか・・・!?広島の高校の校長先生が自死された事件をご存知でしょうか!?彼の死を国は、見逃さなかった・・・。彼の本当の気持ちは、彼に聞かないとわからないけど、彼はもうこの世にいません。それを利用するかのように、学校にあの曲を入れてきました。そして、それとほぼ同時進行で、野球・サッカー他のスポーツの開始で人気歌手の独唱を入れ、さらにマスコミがガンガン報道していきました。そして、今、音楽の教師は、自分の意思と関係なく「1つは、伝統楽器を!他の国に行って、伝統楽器のひとつも弾けないなんて恥ずかしい事です。」という事で、数少ない音楽の授業を伝統音楽に割いています。私・・・・!?私は、採用当時から1年生で「さくらさくら」を筝(いわゆる「お琴」)で弾いてもらっていました。今は、それに少しアレンジを加えて授業しています。
伝統音楽をず〜〜っとやって来て、注目を受けてるアーティスト(東儀秀樹・吉田兄弟・新田親子・林英哲・・・他)の演奏が素晴らしいのに触れる機会が増えた事を嘆いているのでは、ありません。その事自体は、いいことだと思います。日本人としても、喜ばしいことです。でもねぇ・・・。夏の音楽科の研修も、すべて伝統音楽に関するものでした。
この動きって、おかしいような・・・・・。
木下牧子さん
2002年
私が、今、とっても好きな作曲家の一人に木下牧子さんがいます。(木下さんのページhttp://www.asahi-net.or.jp/~az4m-knst/)彼女は、今の日本を代表する作曲家の一人なのですが、このページを見ていただければわかるように、とっても気さくで威張ったところが全然見られません。偉そう・・・でないんです。このHPがちょうど出来た頃、木下さんを検索してみて、ココを知って、掲示板にカキコしたり、懸賞に応募したりしました。懸賞では、新曲の楽譜が見事当たり、(その頃は、アクセスする人も、まだ、少なかったようです。)木下さん自ら書かれた封筒で送られてきました。一筆箋にひとこと添えて・・・です。それで、お礼のメールをお送りしたのは、もちろんですが(メールのお返事もすぐにくださいます。)年賀状も書かせてもらいました。こちらもお返事をいただきました。ただ、これだけ・・の事なんですが、こういうことができる木下さんレベルの作曲家がどのぐらいいらっしゃるでしょう!?こういう人に一歩でも近づきたいな・・・と思っています。
木下さんの曲から・・・(今年合唱団で歌う歌の中の一曲)
夢みたものは・・・・・(立原道造作詩)
夢みたものは ひとつの幸福
ねがつたものは ひとつの愛
山なみのあちらにも しづかな村がある
明るい日曜日の青い空がある
日傘をさした 田舎の娘らが
着かざつて 唄をうたってゐる
大きなまるい輪をかいて
田舎の娘らが 踊ををどつてゐる
告げて うたつてゐるのは
青い翼の一羽の小鳥
低い枝で うたつてゐる
夢みたものは ひとつの愛
ねがつたものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と
合唱団
2002年
私は、福岡合唱協会という合唱団に入っています。入団は、就職よりも早かったので、もう19年目です。音楽との付き合いで、この団で味わった音楽は、とても多くの影響を与えてもらっています。